宙1

















残影A (H40)












不測の事態 (H65)










素材

桐塑 (桐のおが屑)
しょうふ (小麦のでんぷん)
張子紙 布切れ
鉛 針金 脱脂綿
アクリル絵の具
その他



写真をクリックすると作り方が見られます



09’ 10 ストライプハウスギャラリー






























宙3

















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残影 (H40)













根がらみ (H65)



















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宙2 
(径30)


根がらみ (H55)

   
あれが なにして
 

    42 今年も咲いています。 

 我が家に来てから50数年経た古木の野田の3尺藤。樹高が1メーター。来る前を入れると樹齢70年程か。3年ごとに植え替えて、毎年咲かせています


     



4,19


    41
  川の流れ 3

 通常時の川の流れを、周囲の風景に溶け込みながら眺めている時は、心が安らいで、ありがたい大自然に感謝している。しかしこの何年かの状況はそんなことを吹き飛ばす大雨、崖崩れ、それによっての川の増水、各地で堤防の決壊、多数の死者も出て、大災害となっている。今はただ穏やかな日常に戻って欲しいと願わずにいられない。穏やかな流れに酔いたいと思うばかりだが、悲惨な報道ばかりでコロナ騒ぎと一緒になってどこか沈鬱な毎日を送らざるを得なくなっているのがこの頃だ。
 コロナウイルスも自然現象のほんの一部だ。日本の地形が平地が少なく70%が山であり、雨が多く、海までが近く、世界の国と比べてみると流れの速さは特徴的なのだそうだ。「暴れ川」と言われるものは日本のいたるところにある。そこにへばりつくように生活しているのはあらゆることが水の恩恵を受けて、人は生きているという証で、その状況はこれからも何も変わらない。
 悲惨な状況を映像で見ていると、こんな所に建てなくてもいいだろうと思う場所に家が立っている、人が生活している。もうちょっと離れた所、高い所に、と思うけれども、現実はまた同じ所か、似たような場所に建て直すことが多いように思われる。
 人間の体も70%が水分だというから、水のような物だ。切りたくても切れない縁と絆を水には抱えている。人が生きていく上で抱えている様々な感情の起伏も、川という自然と一緒で、笑ったり、怒ったり、泣いたり。出来りゃ〜穏やかに過ごしたいと思うのだが。それが自然だから、ダメか
8.16



     40 川の流れ 2

 人間の細胞は40兆億〜60兆憶あるのだという。ちなみにウイルスは、細胞がサッカーボールとすればゴマ粒ぐらいの大きさだという。細胞は絶えず消滅し、また生まれ、1年ほどで入れ替わる。量のスケールは変わっても流れ続ける川に例えて身体に起きていることを{動的平衡}と言ったのは福岡さんだ。
 鴨長明の言葉は、「無常感」なのだそうだが、それは、とどまることを知らず、絶えず変わっていく状況から発している。でも考えてみれば変わりながら続いていく状態は、とりあえず生きているということであり、命が尽きたら、無常も何もない。
食べるものを食し、出すものを出す、そのインとアウトを繰り返していれば、死ぬまで生きられる。
 こんなことを書きながら、何が言いたいのか解らなくなってきている今の私のような行き詰っている状況を自戒して、能力以上の面倒なことを考えなくてもなどしなくとも生きていける。




      39
 川の流れ  1

 
これからのシーズン雨も降りやすくなり、当然河川の水の量も当然増えてくる。日本の豊かな自然を象徴する川。そこに魅入られて様々な文芸、絵画、その他のアートの世界で表現素材として取り上げられているのは今更いうことでもないのだが。
 今年2月の朝日新聞で「コロナ時代の生き方」というタイトルで生物学者 福岡伸一さんの言説が記事になっていた。そこに「方丈記」の「ゆく川の流れは絶えずして・・・というのがほんの少し触れられていた。そういえば、こんなことがあったよな、と思い出したことがあったのだ。

 
ごくつまらない個人的でどうでもいいことなのだが、今はこの世にいない姉の口から出た言葉が今も頭の隅に残っていて、今だにこん畜生と思っているのだ。何かの話の流れで、私がその冒頭の一節を何気なく発したところ、「そうか、いさを君もそれを知っていたか」ときたもんだ。コノヤローと思ったがそばに妹たちもいたので、その場はそのまま口をつぐんでしまった。姉は中学の国文の先生をしていて、当時60近い私に対して、普段の口調が悪びれることもなく、普通に出た言葉だと思う。もちろん私には学識もないからそれ以上のことは深く知らなかった。そのことが前提にあってのことだが。いまだにそんなことを思い出している自分が情けない。
 センセイってキライヨ!。
 私は海よりも川の風景の方が好きだ。町中、野中、あるいは山中にしても、清く流れる水と、周囲の風景がどんなものであれ、川がそこにあれば、命の息吹が湧いてくる。それで方丈記の冒頭の一節を若い時からたまたま知っていたのだ。
 福岡さんはそこに生物としてのメカニズムを重ねているのだ。

21・3





      
 
38 沈んだ空気

 悲しい、寂しいは、日常生きている中で、ふいに襲ってくる感情だ。直接自分自身にから起きれば切実だが、有名人の訃報、身近な人の唐突な悲報も濃淡の差はあれど、沈む心に変わりはない。他力を期待しない自己責任なのだが、社会的動きを制限されている現状の中で、何ができるのかという想いが走る。
 一方で「うれしい、楽しい」もいつ起こるのかも解らない。今あてにしていい社会現象の中に気持ちを高揚させてくれる材料が見当たらない。個人の力ではどうにもできない空気が充満している。世間を包むウイルス騒ぎの漠然とした沈んだ空気感の中で、嫌も応もなく誰でもが陥っている、どこか悲しい、寂しい霧の中の現象だ。身近に陽性になった人もいない。少なからず直接大きな影響や被害も無いではないが。悲嘆にくれる程のこともない。にもかかわらずにも、だ。
 大勢で飲んで騒いでいた頃が夢まぼろしのごとく消えた。帰り道、家までたどり着けず道端で朝まで寝込んでいたおバカはどこかに消えた。そんな自分のことで言えば、「若さ」が消えたのだけなのだけれど、自粛を迫られ、自由に出かけられないこんな時勢に「若い」をやっている人達がかわいそうだ。
オリンピック誘致のバカ騒ぎが懐かしい。
 毎晩夢を見るけれども、楽しいと思える物はほとんどない。わけも解らない内容にうんざりしながら眼が覚める。年のせいと言われればそれまでのことだが、寝ても、起きてても突き抜けた明るい夢を見ていたい。
 
21.1.28


 
    
折々に気付いたことを書き綴ろうと思ってます.)
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