あれがなにして
               それがどうした



折々の思いつきエッセー



 

                   
 
36 リーダー?

 またまた、また体を壊して、不調が続いている、病院通いもいいかげん辞めたいけれど、とりあえずまだ生きていかねばならず、薬漬けの毎日で体を保っていて、病状は改善されているのでありがたいのだが、どうにも飽きる。
 今年は塩害もあって、紅葉をいつも楽しみにしている庭の木の何本かが、この時期に枯葉の様相を見せて、気持ちも沸かない。しょうがない愚痴の連続である。
 何とか個展も終わって、次に向けて歩き出した。頭の方はまだ大丈夫と見えて、いつもの作品につながる妄想にも拍車がかかってきた。
 妄想といえばアメリカのトランプさん、暴走が止まらない。大統領という立場の権限の強さ大きさに、あらためて驚くだけである。日本の首相がどんなに勝手なことをしていても事が小さく見えてきて、寂しいぐらいである。片っぽは下品に見えるし、こっちは貧相に見えてしまう。リーダーってなんでしょう。
 組織に属したことの全くない私としては、理解があまりできないのだが、どちらも弊害ばかりが目立つのが気になる。このところ続いているいくつかの何とか会長の問題になった一連のしょうがない事件を思い出している。乗っけてしまう周囲も大いに問題なのだろう。
 来年は4年ぶりに教室展を9月に開催することに決まった。12人程のメンバーが思い思いに制作してきた作品を展示することになる。考えてみれば、私もほんのささやかなリーダーではある。組織とも言えないし、なんの権限もないから威張れることは何もない。
疲れないから良かった。と、とりとめもなく終わる。

 
11・18

 
35 暑いぞ!
 
豪雨があり、それによって土砂崩れがあり、たくさんの人命が失われていく。しかも気温の異常な上昇という表現で、毎日、毎日過激な報道が絶え間なく続いている。
 日本だけではない現象のようなのだが、だからと言って、慰めにはならない。現実にこうも毎日サウナの中にいるような状況が続いていると、体そのものの構造が変わってしまうのではと恐ろしくなる。クーラーをつけるのはいいが、そのために今度は体が冷え切ってしまい、硬直したような不快な気分に襲われる。我が家は古い民家だから風のある日は数ある窓や玄関風呂場まで全部あけはなす。すると自然の風の心地よさが身に染みてこの上ないありがたい。うれしい。自然とともにある生き物としての実感がする時である。しかしそれも間もなくやってくる凪の責め苦がやってきて、元も木阿弥で、またもクーラー時間が夕方から朝まで続いていく。
 暑さも、寒さも自然現象なのだが、四季が明確にある日本という国だ生まれ長いこと育ってきた身にとってこの最近の気象状況には逃げ場のない恐怖すら覚えるのである。
 報道で死に至るほどの気温などと極端な言われ方をされ、過去に経験のない豪雨などと言われてしまうと、どこに逃げればいいのだと、解決のつかない袋小路にみんなが入っていく。せめて表現方法ぐらい何とかならないのかと、いわれなき愚痴が、ため息と共に、うだ。うだと口から漏れ出る。暑い!
 
34 面白いなあ〜
 
 日本でいうトランプ遊びのトランプは、英語ではカードと言っているようで、「切り札」という意味なのだという。勘違い英語の一つなのだろう。
 アメリカの大統領選びは漫画チックな面白さで日本にはありえない選挙になっていた。まじめ一本の堅い女性候補が片意地をはり、一方は好きなだけ言いたいことを吠えて
応援者も本人もただただ叩きつけるように言い、言葉のきつさで溜飲が下がる想いをしたに違いない。本気なのかどうかわからないような言動で、政治の世界ではないエンタテイメントの面白さで、私などのはそこに引かれるようにテレビの画面に見入っていた。トランプという新しい大統領が、アメリカのみならず世界の切り札になるのだろうか、全く未知数と言っている面食らった予想を外された政治評論家の面々も、私たち多くの素人達も、その行方に興味津々なのは共通だろう。が、まだ漫画の世界が続いてくれれば面白いのになあ、と私など無責任に思っている。停滞しているアメリカに大きな変化があり、行き詰ってしまったような空気が充満する日本にどんな風が吹くのかが、今後の楽しみではある。
 11.12 
33 疲れるなあ〜
 
 個人的なことでいえば、4年前に肝臓の大きな手術をし、そのあと別の場所の内視鏡やらカテーテルのやらの手術、検査、その間入院を何度か経験し、昨年後期高齢者の仲間入りをした私は若いころから病と怪我の人生を送っている。その都度立ち直って「お前はしぶとい」とみんなに言われるが、本人にとっては疲れる生き方をせざるを得ない切実なものだ。というのも自分で事故を起こしたとか、自ら選んでそうなったとかということではないから、それはいつの間にか本人に断りもせず訪れて、医者の付ける病名を受け入れ、出された薬や検査を素直に受け入れている生き方なのだ。当然病名を告げられても、受け入れるしかなく、時々小さな勘違いと思える医者の判断にも従うしかないのである。
 今も今後も医者に言わせれば「未来永劫」続けていく治療が始まっている。経過はすこぶる良好で、「またお前のしぶとさを発揮してるな」といくつかの声が褒め言葉として聞こえてくる。しかし年齢も重なって、少しづつ出来ないことが増えていく。失っていくのが人生なのだと、つくづく思う。しかし少しづつでも新規に身につけることをし続けなければならないのだろう。終わりはまた少し伸びたようだから。
16・1・3
 
32 物があふれて
 
 
最近やけに陰惨な事件が多いような気かしてならない。昔からあるだろうと言われれば、そうかもしれないが、今の日本では事件そのものは減っているのだという。しかし仲間の集団、あるいわ夫婦によって弱い者をいじめ殺すという事例が目立つようなのだ。利害関係があって利益を目的に犯行に及ぶ、というのならまだ理解できるかもしれないが、寒い川原で13歳の子を裸にして17,8歳の仲間が刃物で傷つける。20歳前後の集団が19歳の少女を生き埋めにする。ウサギのゲージに5歳児を閉じ込め、何日も食事を与えない夫婦。生後4か月の子供の頭や腹を殴る父親、どれもこれも最後には命を奪うのだ。身も蓋もなく、最後は自滅につながると誰にも直ぐわかるどうにも理解しがたいこんな事件、まだあった気がするのだが。
 AKB48というにぎやかさを代表とする、可愛いという幼児的な物が世間の空気を作り、店には便利できれいな物が溢れ、トイレは内も外も清潔になり、テレビでは美味しい、旨いと一日中食べている画面が流れている。こんな今の日本で、反面、得も言われない飢餓感のようなものが底辺に淀んでいるようなのだ。物が溢れれば、それだけの分欲望が膨らみ、それだけの分満たされない。持たなくてもすむようなスマートホンも無理して持ち、置いてきぼりにされそうな危機感から逃れる。だが電車の中でスマホに熱心に見入っている若い人。遊んでいるようで実はスマホに遊ばれていることに気が付かないでいる彼らの孤独感が不気味で仕方がない。
31 自然観のこと  5

 ちょっとした風が心地よく首筋に当たるようになり、夏の終わりが体感される季節がきて,夕方虫の音が聞こえ始める。日に日に合唱に参加する個体が増えるにつけ、虫の種類の聞き分けも私には無理になる。時にはうるさいと感じるような大合唱は、しかしそれでも10月半ばには小さくなって、そろそろ冬の気配さえ感じ始める。日本の季節は繊細でその情感は多くの詩歌に歌われ、言葉になって心の中に染み入ってくる。
 大昔、と言っていいだろう40年ほど前、今でも季節になると必ず思い出すのだが、仕事上世界の短編小説を漁って読んでいたことがあった。その中の一つにイギリス短編小説集というのがあって、その中に「コオロギ」という話が載っていたのだ。その内容は、男が一人暗い庭に出ていくと、コオロギの声がかすかに聞こえてくる。男の目的はその声を聴くことである。男にはその声をモールス信号として捉える能力があって、毎晩聴きに出てくるのである。実はその信号は死の国からの伝言で、翌日亡くなる人の名前を知らせているのである。時には知り合いの名前も出てきてびっくりし、嘆いているのだが、突然自分の名前が出てきて愕然とする。なんでだ!と大いに失望する。そこで終わる小説なのだ。
 他に人の気配のない静かな暗闇の寂寞感漂う中で、虫の音はどこか死生観に及ぶ感覚に襲われるのは人種に関係ないのかもしれない。そう思わせるのだが、しかしモールス信号に聞こえるという発想には西洋的な現実感が漂っている。情緒がちな日本人にはあまりできないものかもしれないとも思うのだ。

 
30  自然観のこと 4
 
 気持ちの良い風に吹かれたり、川や山、そして海。水のある風景に、心休まることがよくある。たとえそれが暑い夏でも、厳しい冬でも、ちょっとした風景の中で日頃の心身の疲れがスーと抜けていくような感覚の時が訪れる。自然ってありがたいなと思う。大きく言えば、地球って素晴らしいなと思う時でもある。
 しかしそれは当たり前だが、人間が人間のために作り上げたものではない。
 太陽があり、宇宙空間の中で力加減の微妙な位置に地球がとどまって、そこで大いなる恩恵を受けながら今の地球の存在が成り立っている。隣の金星には生き物はいない。視点をちょっと変えてみれば、そんな地球の環境があるからあらゆる生き物が生きていられるわけで、例えば酸素がもうちょっと薄かったり、重力が少し緩やかだったら、この五体そろったい今の人の形はなかったろう。火星人がいるとすれば、その人たちにとっては火星こそが心地の良い大自然なのだ。火星の生き物が地球に来たらすぐに命を落とすに違いない。逆に人間はまともに火星には住めない。
 思うのは、人間が普段、なんとなく自分たちのためにこの大自然があるかのような思い違いをしていないだろうか。地球が先にあって、人間はそれに合ったように作られていった。だから地球のどこをいじって痛めても人間は自分の首を絞めていることになる。ということを時々思うのである。
 人間が傲慢になって自然をいじくりすぎて、また、自然界には元々ない化学物質などで汚染させると、すべて人間の身に帰ってくることは、経験上子供でも分かるはずで、人間による文明の行き過ぎた発展は全生物にとって危険なのだと思う。
 
29  自然観のこと 3

 
我が庭には、6月初めごろから7月いっぱいごろまで咲いている半夏生という爽やかな花がある。この草は変わっていて、花弁がなく、てっぺんに10センチほどの細い穂が伸びていているだけである。特徴的なのは、そこから下の10枚ほどの葉っぱは、半分ほどが整合性もなく白色に脱色されたように染められている。花弁がないために葉っぱを花弁のように見せる工夫をしているのだという。 だったら最初から多くの花がそうであるように、5,6弁の花弁を付けたまとまったものにしたらいいように思うが、どっこい、そこには他との違いを見せて、目立って生き抜こうというしたたかな相違工夫があるのだろう。差別化を図ってライバルたちに勝ち抜こうというわけだ。
 庭の草花を眺めていると、目も休まるし、気持ちも落ち着く、自然のありがたさを日常的に感じているけれど、しかしひとたび手入れを怠っていると、みるみる勝手にはびこってくる。マサキの生け垣にはたかだか2,3メートルの間にちょっと数えただけでも10種類ほどのつる性植物が、我もわれもとひしめき合いながら、ライバルたちに勝つためにひしめき合って伸びていく。戦場にされたマサキといえば、確かにつるに覆われた先端はやつれていくが下のほうでは、しっかりと青葉を広げている。負けてはいない。しかし人が手を入れないとそのうち無残に枯れていくだろう。一たび人の手が入ればそれは本当の自然ではない。
 人を和ませてくれる自然界の草花の内側ではすざまじい生存競争が繰り広がっているのである。それが自然というものの節理であり、生きていくという過酷な試練は、植物も人間を含む動物も運命づけられた目に見えないものとの契約なのだろう。書類にハンコを押した覚えはないのだけれど

次回につづく。
14.8.30
 
28  自然観のこと 2
 
 鎌倉の南西のはずれに、小動(こゆるぎ)
神社というのがある。海に沿った国道からすぐ階段があって、上っていくと歴史の中で育まれてきた風格のある社がある。神社の敷地そのものが海に突き出た小さな岬であって、すぐ下は漁港である。海抜は10メートルほどだろうか、そんなに高くはない。社の裏手に回るとそれほど広くはないが平地がある。そして崖の周囲には小さな灌木とススキのような草がみっちりと茂っている。直接すぐ下の海面は見えないが、目の前の江の島が全貌できる所である。
 17歳になった頃、怪我と病気の予後で所在のない
2年ほどを過ごしていた。今の世界に入る1年ほど前の事である。体力をつけなければならず、けだるい体を持て余しながら毎日のように市内を歩き回っていた。
 小動もその一つで、緑色の印象がないから、たぶん秋の半ば頃ではなかったろうか、社の裏手の何もない平地に立っていた。海方面からの強い風が、小さな木々、丈の高い草などを揺らして、あたかも嵐に翻弄される海面のような風景を作っていた。曇り空の中、ざわー、ざわーと騒ぐ木々、立っている自分の身体をその風が吹きぬいていく、身体の存在が希薄になって、意識の方がより先鋭になって、思わず涙が湧いてきたのである。まったく先行きの見えない身分、今現在、後にも先にも何の裏付けもない状況が、全く人の気配のない激しい風景に、絶望的といっていい寂寥感を掻き立てられたのである。弱いなあと思いながら、なすすべのない自分に泣けてきたのである。
 大きな風景の中で人間って小さいと感じることは誰にもあることだろう。さまざまの風景の中で、人間一人が自然の中で体感することは、個人のその時点の状況を反映して、時には過酷に意識させられ影響されることもあるものだと、後に考えたのである。
14・7  つづく
 
27 自然観のこと 

 個
展が終わってホッとしている毎日を送っている。何十回と繰り返している事ではあるけれど、やはりとりあえず肩の力が抜ける。大事な時間だと思っている。以前にもあったことだが、今回も会期中に「浜さんの自然観は?というような質問を何人かに聞かれた。それというのも私の作品のタイトルに自然にまつわる言葉が多いからなのだ。あらためて人に言われるまでもなく私は人の気持ちを自然なぞらえてタイトルをつけることが多い。
 人間も大自然のほんのささやかな一部に違いなく、ともすれば人間が自然を管理できるというような大きな勘違いをしていて、例えば巨大なダムを作って、自然破壊をして、自然を管理しているような気になっていると、どんなに強固に作っても、いずれ土砂崩れをし、決壊でもしようものなら、下流の人間はひとたまりもなく消滅の憂き目にあうだろう。東北の大地震、津波の破壊力は想像を遥かに超えてすざましいかったの思い出さずにはいられない。。
 現代人は文明というのは人間の勝利の証というよ思い上がりをして気がしている。自然と闘って、あたかもそれを制御出来ているような考え方を持っているように思えてならない。私としては、どんなにあがらっても大自然には勝てるわけはないと思っているし、というより人間は自然のほんの一部と感覚していた方が、さまざまな事象の説明が容易なのだから。
 人間の身体は70%の元は雨水と、宇宙空間に漂っている物質や幾多のウイルス、細菌たちの小さな生き物によって構成れていることを忘れてはならないと思う。
2014・6 次回につづく。 
 26  古民家ミュージアム
 
 長年にわたって続けてきた何十回かの個展活動でも、地元で開くのは,鎌倉駅前にあった西武デパートで開いたものに次いで2回目になった。40年ほど前になるそれが私の最初の個展でもある。
 家から歩いて10分、駅から2分、環境も最高の場所であり、十分な広さもある会場は独特な雰囲気を持っている。 福井県や岐阜の高山方面から解体された民家の古材を運んできて新材を交えながら2階建ての美術館である。建てたのは個人の趣味であり、道楽といってもいいかもしれないが、とにかく中庭を持った贅沢な大きな建物になっている。立体、版画、62点が1階全部を占めて尚、ゆったりとした空間が保たれているのである。2階では2人の絵描きさんの絵が並ぶ。
 作品は会場によって何時も表情を変えてくるのだが、今回はとりわけ違っていたと、私ならずとも多くの人からもそれは聞かれた。地元でやる事の意味はともかく、全くいつもと違う雰囲気が大変面白かった。建物自体の古材の色、匂い、採光が紡ぎだす室内の空気が白い作品を包んで、いつもと違う物語を作っていた。私にとってもそれは新鮮で、何か劇場でのストーリーが毎日進められているようで面白かった。

 
何十年ぶりの出会いがあったり、いつもの個展には来ない、したがって作品も知らない多くの観光客の人たちの反応が新鮮で、疲れもしたのだが、こんな空間が作れるのも立体だからで、また白いということも、大きな要素だったと思う。
 2013 10
25  オリンピック
 

 今年の夏は暑く長い。年と共に耐える力も衰えて、加えて病み上がりときては、ちょっとつらい。これを書いているは、9月9日だけれどまだ秋の気配はわずかである。
 2020年のオリンピックが東京開催に決まったとマスコミははしゃいでいる。オリンピックの招致に出かけたスポーツ関係や政治関係の方々は歓喜している。うれしいのは結構だし、賛同してもいいのだが、一方で汚染水の問題の深刻さを強い調子で訴える学者がいる。すぐに総理の安心宣言は真っ赤な嘘だとも言っている。その落差に唖然とする。はっきりと2分されていて、どちらか側で判断するかで全く違う正反対の心情になる。悲観的な立場から見れば、スポーツ関係者のはしゃぎようなど、能天気そのものに見えるだろう。安全だ、問題ないと世界に向けて宣言した総理大臣、今度の総理の言説は普段からかなり軽い印象を残しているから、この国の政治そのものをあまり信じていない多くの日本人はどこか半信半疑でいる。
 オリンピックにには反対でもないけれど、一番
肝心の原発問題を同時に詳しく報じることも大事なことなのではないだろうか。
 新聞、テレビは冷静に本当の現状を精査して報じてほしいのだ。今現場ではこんなことをやっているなど、あくまでも中立にそれも毎日、テレビは時間を、新聞はコーナーを、週刊誌はページを決めて取り上げ続けてほしいのだ。やたらに悲観的な専門家の意見を扇情的な取り上げ方をする所が多く、不安を煽っている。しかしそれが正しいのかもしれない。一方でこういうことだからとりあえず安全なのだと説得力を持った専門家の意見も交互に取り上げて貰わないと、一般は不安でしょうがない。 そしてちゃんと議論してほしい。それを報道してほしい。
 早く国を挙げての処理を続けて、本気でやっていることを一般に見せて、世界にも発信して知らせてほしい。心配しながらのお祭りなど芯から楽しめない。
 22013 9
 24 
 
 
私の作品は裸体表現。男もあるのだが多くは女の身体なのだ。男の身体は体型が硬くてどこか建築物を思わせるところがある。硬くて表現の幅がどうしても狭くなってしまう。力強い表現のときには特徴が発揮できていいのだが、ちょっと優しい表現を入れると中性的な作品になっていく。こちらの意図とか狙ったものとの乖離ができる。ちょっと曲げてみてもポキっと折れてしまいそうな感覚に陥る時もある。反面女の身体を使うと曲げても反らしても不自然さがない。力強く作っても女は女なのである。肉体的に骨格や筋肉のありようが柔らかく、どう曲げても反らしても不自然
に思われなくて、何処までも表現が広げられる。女の身体に仕上げた作品が、胴も気に入らないと思ったときに思い切って曲げるか延ばすかして変形していくと限りなく表現の境地が広がっていくのを実感できることが多い。
 考えてみると、それは実際の男と女の内的な素質の違いのようで、生命力は女の身体の方により備わっていて、男はいざ生命力に関しては女の後塵を拝するしかないようだ。
私がモチーフによく使う蔓状のものにしても、絡んでは伸びていくような生命力的素養は、女のエロスに通じるものを感じるのだ。決して男の粘り強さではない。エロスとは生命力の事だが、それが女性の方により備わっているというのがよくわかる。
 歌舞伎の中の娘道成寺。清姫が執拗に安珍という恋い焦がれた男を追っていく様は、我が家の庭の幾種類かの蔓状植物のどこか動物的な意志の強さに似たものを思わせる。象徴的に最後に蛇に変身するところなど、まさに蔓状の執念を感じさせないでおかないのである。
2013. 5 

23 紀伊國屋画廊
 
 新宿の紀伊國屋書店がオープンしたのが昭和2年(1927年)の1月で、その時すでにギャラリーを併設したという。田辺茂一という人の文化に対するセンスは単なる書店の親父を超えて、文化人の領域の人だということが理解される。
 田辺さんの他に番頭、店員2、小僧の5名による書店には、一般雑誌のほかに同人誌や文芸誌、文学書、学術書などを中心にして他の書店との差別化をはかったというから、ただの商売人ではなかったということだろう。
 2階のギャラリーでのオープニングは安井曽太郎、続いて佐伯祐三、東郷青児などの個展を開いたというから大変なものである。昭和2年という年がどんな社会状況」だったかは私などあまり知るところではないが、文化人としての先人ぶりは、そのことでも計り知られるというものだ。
 5年には新宿本店を新築し、2階に講堂を作り、外国語教室などを開いたという。
以来新宿の中心に老舗として君臨しているのだが、その書店から4階にあり、紀伊國屋ホールと隣接していた画廊が昨年12月をもって閉じられてしまった。昨今の経済状況の中、運営が厳しくなったということのようだが残念この上ない。
 私は昭和55年から13回の個展、版画のグループ展にも2,3回参加している。銀座の画廊からここに拠点を移して以後活動をサポートしてもらっていた。企画展としての応援を、より良い新作を作ることで答えようと四角い広いスペースで頑張ってきたのだ。大きな絵も立体も展示しやすく、今や都内でも貴重なスペースなのだがほんとにおしいことになってしまって残念だ。
 
 22 生きる
 
人を形成している細胞は(他の動物でも同じだろうが)常に消滅と再生を繰り返して留まる事がないそうだ。それが半年から一年ですべて入れ変わっているのだという。だから去年の自分は今の自分ではないともいえる。福岡伸一さんはそれを「動的平衡」と名付けたけれど、命はそうやって維持されながら続いていくのだ。
 それは肉体的なことだけれど、日常的に繰り返している感情の起伏も破壊と再生で成り立っている。卑近な例だが、友達との電話の会話も、考えたことがうまく伝えられなかったとか、今日はうまく言えたなど、たとえそれがとるに足らない事でも、気になっていることがある。それも時間が経ったら忘れている。こんな繰り返しで人は生きていく。
 破壊と再生は私の作品の芯になる生涯のテーマだが、若い時には変身などと言っていたことがある、同じ意味なのだ。
 図らずも今年の一月、肝臓を半分切り取るという手術を受けた。でも残りの生きた肝臓は二、三カ月で急激に戻り、三、四年で九十%まで戻るのだと教えられた。だから肝移植も出来るのだと納得したのだが、すごいことだなあ、と安心もし、医学の進歩にも感謝している。
 それは再生だが、他の臓器でも再生はしないが、それに代わる臓器が代役を果たすものがあるという。

 
大げさに聞こえるかもしれないが、事実として自ら体験していると非常にリアルに感覚しているのだ。
 日常的な感情の起伏にしても、何もせずに無為に過ごしている人と、何か起こそうと頑張っている人の違いは、その感情の起伏の差にあるだろう。新たに何か起こすとか、創りだすとかしている人の方が若くいられるのも納得されるとこなのだ。本当は安穏と流すことなく、自分から起伏を創っていくことこそ大事なことなのだと思う。 
12.2・23
21 溢れる水
 

 地球は水の惑星と言われている。火星に水の痕跡があるとか、土星の惑星には火山活動があり、水のある可能性も捨てられないという。地球外生物を専門家は探査しているが、今のところまだ見つかっていないようだ。水がなければ生物が存在しない。

 
その水が今の日本で暴れている。3月に東北の大震災があり津波により想定外の被害にみまわれた。今これを書いているこの時間、屋外は強い風が大量の雨を屋根、地面、窓ガラスにたたきつけてすさまじい。台風15号、この辺では久しぶりの台風騒ぎとなっている。しかしすでに和歌山、奈良あたりは何万人という人が避難する被害が出ている。夏のまっ最中から沖縄、四国、和歌山、北海道まで大雨に見舞われ大きな被害が出ている。水の惑星といわれているが、世界中で日本が今それを一番実感しているのではないかと思う。3月から陸地に水が押し寄せ、その後の気象状況も天上からの水で溢れまくる状態で、日本全体が水浸しである。
 
周囲が海で、山も多く、年間を通して雨も降り、その恩恵を大いに受けながら我々は生きてきた。だから今年も水害には比較的冷静に対処しているように思える。誤解を承知で言ってみれば、慣れている。津波の被害はひどいものだが、その土地は何百年にわたって繰り返し津波に見舞われた土地だそうだ。その土地に再び我が家を建てたいと思っている人が少なくない。原発の事故はもってのほかだが、自然の脅威にも、優しさにも付き合ってきた伝統が日本にはあるからだろう。山間の谷川のそばに暮らす人も、水の恩恵が莫大であることを身にしみて感覚しているのだろうと思う。
 
人間の体は70パーセント近く水だそうで、言って見れば人間自身も水浸しなのだ。そういえば私は今年の夏、心臓と肺に水がたまるという病気で入院した。ありがたい水だが、願わくば余計な水は勘弁してほしい。’11・9.21 
 20 地図
 

 昔から地図を見ているのが好きで、時間があると地図帳を開いて楽しんでいた。なんとなく耳に入った場所を確かめたり、旅行に行く前に行き先の地図を確かめる。帰ってから改めて行った場所を確認し、そこで改めて周囲の位置関係を見たりして、意外な発見があったりして楽しむのだ。 たとえば、以前行った場所が意外に近くにあったのを見つけると、両方の風景を思い出して頭の中でつないだりしている。即座に自分なりの立体地図が出来上がるのだ。行ったことのない知らない土地は想像を掻き立てて、架空の旅のベースにする。

 
最近5年ほどはもっぱらネット上の便利な地図である。提供されている地図は従来の番地まで入った図面と、「写真」をクリックすると同じ場所が上空からの鮮明な風景写真に変わって、よりリアルな楽しみ方ができる。
 グーグルアースというサイトでは地球上のあらゆる所が瞬時のうちに鮮明な写真で見られる。操作によってそれが立体となり、また主要な通りを車で走って撮影した等身大の映像が、それこそ玄関先や、表札まで見られるような機能まで供え、知り合いの家の門が見ていまって、何やらのぞきにも似た感覚になり、少々やましい気分になったりしている。
 1ケ月ほど前、そのサイトで、東北大震災にあった海岸線の広い地域を見てみようと思い開いた。青森あたりから南にゆっくり下りながら見ていたら、あるところで何やら汚いガサッとした色のない絵柄になった。何だ?と思い良く見ると、明らかに違う内陸の風景が周囲に見えた。え!っと思い気が付いたのだが、地震と津波の被害にあった場所がすでにもう写真地図として公開されていたのだ。上空200メートという画面表示のあたりまで降りると、がれきや幾つかの船らしきやものや残された建物が鮮明に写っていた。画像取得日2011,4,6とある。通常何年か経たないと更新されない画面が、今回は即座に切り替わっていたのだ。すぐに福島第一原発のあたりに下ってみると、そこには無残に鉄骨をさらした建物が幾つか写っており、薄く蒸気まで上がっている。画像取得日3.19。震災の日の8日後である。テレビで再三見せられた凄惨な風景が広がっていた。建物の周囲はしらじらとしていて、散らかったがれきが見える。
 こうした画像が一気に世界中に広がり、いったい何億の人が見ているのだろうか。ただで見られる怖いようなサービスだ。
 5月22日     
9  揺れた!

 
先週の11日の金曜日、私は新宿の住友ビルにいた。午後の2時半を過ぎたころはちょうど教室の只中で、いつものように和やかに、休んだ人もいたから8人余りでそれぞれの自分の作品に精を注いでいた。突然ガタガタと壁が鳴り、天井がきしんだ。天井の隙間から埃の塊が雪のように目の前に落ち、スプリンクラーのカバーが落ちた。揺れは激しく長く、めまいがするようで机にしがみつく。下に潜る人もいて異様な空気に包まれた。外を見るといくつもの高層ビルの揺れるのが見え、いくつもの大きな街灯が激しく揺れていた。揺れはかつて経験ないほどの長さで続いた。それでもあわてても仕方がない、落ち着くように言って人形作りは続けていたが、その間にも何度となく揺れは激しく、館内放送ではエレベーターが全部止まったこと、電車も全部停まっていることが告げられた。ビルは56階まであるが、幸い教室は4階なので階段が使えるとふんでいた。そこでどう家路に着くかが問題になり、それぞれの立場で考えた。家人に携帯電話をかけても全然通じない。不安といら立ちがそれぞれの顔色にあらわれていた。
 結局全員が帰宅難民になった。そして教室を5時に出、一人が永福町まで幸運にもバスに乗れ、2時間半立ちっぱなしの帰路。一人がなじみの迎えのタクシーを待ち、千葉の自宅に着いたのが翌朝の6時だったそうだ。後は30分、1時間ほどで帰れる人もいたが、全員が家まで歩いたのである。一人は赤羽まで4時間半、一人は足立区の花畑まで6時間半、40代から70代の我が教室の女性たち。頼もしい。
 私はと言えば、鎌倉まで歩くわけにもいかず、みんなを送ってから一人、まだ高もくくっていて、天ぷら屋に行ってそのうちJRも動くだろうと酒を飲んでいた。  結局東口の通路でホームレスの覚悟を決め、新聞と、まくら代わりにフリーペーパーの束を抱えて座りこんだ。そんな人で地下道は溢れていた。11時過ぎに大江戸線がようやく動き、蔵前まで行き、新橋から歩いた家内のいる浅草の義姉の家に着いた。ちょうど夜中の12時だった。
 東日本の大震災。未曾有の大変な被害を受けた多くの方々の頑張りに、拍手をしたい。
   11・3・16 
18 情報漬けは疲れる

 正月の三ケ日はいつものようにテレビの駅伝中継に釘づけである。それと正月らしい演芸番組を録画した。他には見たい番組が特にない。
 暮れに過去のドキュメンタリー番組の再放送をNHKのBSでやっていたので撮りためていた。しめて12時間ほどで、それをじっくり見ていた。世界の貧しい国のストレートチルドレンと呼ばれる子供たちの話である。気が滅入る重い話で、酒の味がやや苦い。でもカズノコを口に入れる自分がいる。。
 正月以外の日の夕方は、いつもの習慣でニュースをつける。朝は朝で決まりのようにニュースが流れている。去年の9月にチリの炭鉱の落盤事故があり、10月に入ってから劇的な救出が始まる様子には気持ちを入れて見入っていた。なんてったって生中継ですよ、すごい時代になったものだ。それを、他人の不幸を、どこか楽しむような感覚で見ている。全員救出の瞬間は正直、良くできたドラマのようだった。昔アポロ計画による月面着陸や、続く人間による月面歩行の中継を、あれはどこかのスタジオのセットだったと今でも信じている人がいるらしいが、その気持ち、わからないこともない。
 11月には尖閣列島での中国漁船との衝突事故。そのうち歌舞伎役者のどうでもいい暴力事件が延々と流された。その間には多くの幼児虐待やら殺人事件が報道されて、見なくても済むものをついつい見ている自分に気がつく。時には画面に向かって怒っている。中国との軋轢だけは本当に気になるが、しかしどれも遠い出来事であり、知らなくても自身の日常にはとりあえず何も困らない。同時にバーゲンやら、安くて美味いという店に多勢で群がる様子を報じられる。そんな人達には共感のかけらも感じないが、あたかもそれが日本全体の風潮のように騒ぐ。すべてを
ごった煮にしてどの局も同じように報道して騒ぐ。テレビなど信用しているわけでもないのだが、いつのまにかラジオやネットなども含めた情報漬けになっていて、妙な悪い菌の発酵が我が身に起きていていないかと心配になる。’11・1・11 
17 若い男はどこへ行く

出かける用事があって朝9時ごろ電車に乗った。大船で乗り換えて東海道線の電車を待った。私の前には大きな篭を背負ったお年寄りが二人一緒に並んでいた。昔大森にいた時分に一日おきに来ていた通称(千葉のおばさん)。野菜や干物、お餅など何十キロになるものを背負って行商に出かける、たくましいお年寄りである。大船のおばさんなのだろうか。 懐かしい気分で車内に入りドア際の席に座った。
 すると背の高い大きな体の若い男が勢いよく乗り込んだ。その男は乗るやいなや、周囲を気にもせず、大きなバッグとこれも大きなビニール袋を足元の床に置き、空いてる席に座りもせず、やおら袋の中から弁当を出した。ドアのある出入口のど真ん中である。そして立ったまま弁当のふたを開け、電車の振動でユラユラ揺れながら不安定に食べ始めたではないか。車内にはすき焼き風の匂いが立ち込め、むせるほどになった。お婆さん達を思わず見ると、二人して不思議なものでも見るように、口が半開きの唖然とした顔で見上げていた。その同じ表情がなんとも面白かった。
 若者は依然として食べかけの弁当を床にじかに置き、ペットボトルをバッグから出し、飲み、床の弁当を取り上げ、ガツガツとお食事中なのである。気が付いたら次の藤沢駅ではそこのドアーが開いて人が乗り降りするはずである。私は思わず右手を延ばして男の腰を軽く叩いた。 振り向いた男に、私、「ここに座って食べなさい」 振り向いた男、「結構です」 私、「結構じゃないよ、そんなとこで立ったまま食うか?」、怒ったわけではない。男、「すいません」。そう言いながら座った。ちょっと離れた席に移って見ていると、弁当をカラにし、今度はガサガサと紙の音もにぎやかにパンを食べ始めた。
 その時、ちょっと先の方から「やだよ
ー」というかん高い声、続いて「死んじゃったーー!」という泣き声。見るとやはり太った若い男がゲームに夢中。こちらは明らかに尋常な精神ではない様子。
 なんとも変わった車両だったが、自分にこもり、周囲が全く見えていない様子が働き盛りの年頃の男の姿だけに、気がめいるような光景だった。 11・8
 
16 戦争の記憶

 私が生まれたのは太平洋戦争が始まった年の2年前である。
 旧満州の新京で今の長春。日本が勢いに任せて、というか調子に乗って中国の東北部を占領し、半砂漠のような所に首都となるべき人工都市を作った。名目上の皇帝をかついで、植民地としたのである。欧州列国と組んで、またそのまねをして愚かなことをしたのだ。
 子供に物ごころがつく頃といえば大体4歳ぐらいではないだろうか。だから私の立場でいえば、もう戦争末期のころで、敗戦もすでに目に見えていて、だんだん悲惨な状況が訪れることも大人には見え、感じていただろう。敗戦の年にほぼ六歳、難民になって本土の土を踏むまでに1年近くかかっているから大体3年ぐらいが満州での思い出ということになる。
 いつ、どこで、といったつながりは定かではないが、怖いとか寂しいとかいった状況のいくつかは、はっきりと記憶の回路の中にいつも収まっている。
 終戦間際にソ連が参戦してきて、首都である新京に攻め入って、我が家の周りでドンパチが始まった。静まったなと思う頃、ソ連兵が家の中に踏み入って銃を突きつけ食べ物や、金目の物を要求するのである。市街戦が始まる前の遠い青い空に、白い落下傘の花がいくつもいくつも開いては舞い降りていく。それを玄関先で見ながら綺麗だなと見ていたが、その美しい光景が怖いことの始まりだったなどということなど子供には分りようもない。 土足で畳の上に立つ大きなソ連兵のひげ面が、はるか天井近くにあり、真っ黒などでかい軍靴が目の前に聳え、へたり込んでいる子供の目には大きな山が迫ってきたように感じたのだ。
 しかしこのような光景は今この時間にも、世界のどこかのあらゆる場所で起こっていて、遠い昔の出来事だはないのである。8.12
15 蛍が返ってきた

  我が家から10メートルほど離れたところに幅3メートルほどの小さな川がある。石垣やコンクリートで覆われていて、大雨にでもなるとたちまちあふれるほどの水量になるが、それでも普段は穏やかな風情を見せてくれている。そこに何と今年になって目立つほどの蛍が飛び始めたのである。私が子供の頃には橋の上が子供たちのたまり場になっていて、遊びたくなると一人で座っていると誰かがかぎつけて、一人二人と集まるところだった。その頃でも蛍はいなかった。上流の(といっても2キロほど離れた)源流というべき場所には田んぼもあり、かなり蛍も飛び交う所でもあったのだ。
 しかしすぐそばに街道が走り、住宅街の真ん中であるここまではさすがにいなかった。考えてみるとこの街は谷にあり、両脇の山の向こうは高度成長期の始めごろから大規模な宅地開発が始まり、自然な崖が崩されてコンクリートの車道に変わり、山から染み出す水が減ったのだろう。しかも旧住宅街はその頃まだ下水道が整備されてなく、銭湯の排水もそのまま流れ入っていたのだ。だから子供のころに遊んだ川は小さな魚の影は見ていても水質はそれほど良いわけもなかったのだ。
 開発も限界が来て一通り終わり、谷にある旧住宅も下水が整備され垂れ流しすることもなくなった。今になり民度も上がったのか、ゴミの類も捨てられることもなくなり、昔と比べれば水量は減ったと思うけれど質のほうは格段に良くなったのだろう。本来この辺りは湧き井戸がいくつもある場所だから、基本的には水は澄んでいるはずなのだ。だから蛍が舞うのは必然なのかもしれない。裏の大きな崖が大量のコンクリートで覆われて嘆いているが、救いの蛍が現れた。
10.6,9
14 古都の趣が、また一つ消えた

 間をちょっとおきながら2年にかかって行われた崖の工事が
終わった。旧街道である県道に平行してある車の入り込めない細い路地は、駅に向かう安全な通勤路であり、小さな子供連れの格好の散歩道である。その片面はこの地特有の砂岩からなる高さ20mほどの古都の趣を残す味わいのある崖だった。岩の間から染み出た水が小さな沢蟹に住処を提供し、北向きの場所には冬にツララが下がったのだ。崖の途中の低木には山藤が複雑に絡み、穏やかだが華麗な姿を楽しめたのだ。がけ下のお稲荷さんの祠や、大きなケヤキを中心にした木々の間を冬眠をしない台湾リスが飛びまわっていた。このような場所は市内いたるところにあって何も特別な場所でもないが、しかし残念なことにその一つ一つが気付かないうちに消えていく。ここもその一つになった。
 崖の上にも下にも住宅が建ち、危ないという理由でコンクリートでかなり広い範囲にわたって覆われた。時代の流れで仕方がないとあきらめもするし、抵抗をする力もないのだが、不満なのは工事の粗雑さなのだ。
 一方で工事の騒音に悩ませられながら仕事場から全てが見える工事の経過を楽しんでもいた。
 木を切り、崖を削り、まっすぐにし、コンクリートを強い力で吹き付けて安定させる。木材で外枠を作り内側に発泡スチロールの型枠を貼る。そこに大量のコンクリートを流す。4、五日してそれをはがすと見事なあたかも積み上げたような石垣模様が現れた。私が仕事でやっている石膏のかたどりに似た作業に、スケールは及びもつかないが何かシンパシーを、手仕事の面白さを感じもした。
 気に入らないのは全体のデザイン性で、この古い住宅外に高速道路と同じ大きな升目の雑な土止めが一部に施され、それが石垣模様との何の連携もない雑然とした風景を残した。環境を考慮したもう少し繊細な仕事が出来なかったものか、腹立たしい。10・3・5 



13 ストライプハウスギャラリー
 
何十回と繰り返し開いてきた個展であっても、始めは緊張し、途中で疲れ、終わればホッとして気が緩んでいる
それが何時ものことなのだ。後始末や次の教室展の案内状の手配や、その他日常的なことにしても、結構やらねばならないことが多く、追われてはいるのだが、どこか気が楽な日々を送っている。
 そんな中でも次の新作の構想が頭の中にたまり始めて、終わって8日目の今日、新作の5点の土台になる部分を作り始めた。なんとも気ぜわしく、貧乏性に満ちた我が性癖を自分でもかわいそうにも思うのだが、作っているときが一番落ち着くのだから仕方がない。
 急に力強いものを作りたくなったのである。ガサガサっと芯になる部分を一日やって、気分が安定した。芯の部分をやっていると完成の姿が見えてきて安心するのである。アカデミックな彫刻家などがやる紙の上のデッサンの段階に当てはまるのだと思う。
 長年お世話になった六本木のストライプハウスギャラリーが、一帯の再開発のため一端閉じることになった。思えば、美術館だった時代から25.6年に渡り応援していただいた所でもあり、さびしいのだが新たに開場した折にはすぐ声をかけてくださるとのことなので、楽しみに待つことにしよう。館長さんから「予定どお2年後にやるつもりで作り続けていなけりゃだめ!」などという言葉をもらっている。そういう意味では忠実に今日から新作にかかったのだから、素直なものだと我ながら感心するやら、あきれるやら。 何はともあれ,とりあえず元気だということである。
'09 11.2



12 イメージの迷宮

 さあ、新作にかかろうかと思ったとき頭の中に明解なイメージができていなければ取り掛かれないのは当たり前のことだ。普段どこにいても、何をしていても、ふと浮かんだフォルムなりイメージなりを暖めておいて、作業台に座った時に、それを芯になる部分から取り掛かる。乾かしながら進めるから一気に完成に向かうということにはならない。ならないが、いい作品になるときは芯を作ったときから完成が見えていて、たとえそれが何ヶ月かかろうときちっとした完成目標は崩れることはない。本当を言うとそれはまれなことで、たいていは途中に挫折し、試行錯誤を繰り返すのだ。本当に行き詰ったときは悪いイメージを残さないように壊すのである。むしろそっちのほうが多い。普段考えていたことが駄目だったということだ。これはいいぞと思ったことがそのまま一気にいけばそんな楽しいことはない。もしかしたら人は、もの作りは、その一気にできる快感を目指して死ぬまで思考しているのかもしれない。
 職人仕事はどこか同じ作業を繰り返すところがあるが、いい作家は、常に新しいイメージの提示をどこかに表している。その時点の問題提起のこともある。私に置き換えれば、本業の人形作りでも、あるいは小説にしても嘗ての誰かのや、自分の仕事の踏襲では納得はいかない。今までまったくどこにもないなんてものはとっくに存在しないが、時代の感性というものは変化する。ミニスカートと今も言っていても、30’年代のツイギーの時代とは同じではない。、
 自分を、今の時代に生きている一人として、それを認識下に置いて新作を目指して続けていけば、どこかに新しい視点が見つかるはずである。あるいは見つからないにしても作家として生きていられる。  09’8・17
 11 同人誌「青銅時代」

 小説を一作仕上げた. 3、4年前にそれまでエッセイを書いていた同人誌に、今度は小説を書いてみろといわれて始めたのだ.以来今回ので3作目、正確には昔ごく短いのを他の雑誌に書いているが、小説だという意気込みで書いたものでもないから三作と言っていいだろう。
「青銅時代」という同人誌は去年亡くなった小川国夫さんを中心に1957年に創刊したもので、小川さんは亡くなるまで主宰を続けられていた。私はその最新人ということになる。老けた新人で申し訳ない。同人誌の世界も昔のような活気はないが、連綿と続いている良識を持った「青銅時代」のようなものがあることは貴重なことではないだろうか。一般文芸誌の衰退が言われて久しいが、そんな分、案外同人誌の存在が強まることがおきるかもしれないとも思う。
 人形作りという生き方と、また、まもなく70になろうかという一人の男の生涯の中でおきてきた様々な経験を土台にしながら、小説だから真っ赤な嘘もつきながら(そう、嘘がつけるのがうれしい)。私としては文章という別宅で何が出来るか、新たな挑戦でもあるのだ。原稿用紙30枚を基準にしながら書くのが一番合っているようだから、長いのは無理だ。本業に余波が行っても困るのだ。でも短くても言葉を駆使するのは難しい。言葉のリアルさが苦しい。人形なら手をちょっとひねるだけで表現できることが文章は、言葉はそれだけでは許してくれない。  
09’6・19
10 マーク・ロスコ
 
アルミの大小の断片が絡み合って潰され、大きな塊になっている。あるいはキャンバスとはいえない不定形の板に描かれた、縞模様を中心に原色が絡み合う半立体の作品。アルミの作品は2〜3メートルは当たり前というものが宙に吊るされた形で、また縞模様は美術館の広くて高い会場の天井の周囲に10メートルは越すだろうと思う大きさで、長さで、はりめぐされ迫ってくる。単独の展示の時にはそんな状況に身を置くことが出来る。
 フランク・ステラの仕事を前にしていると小さな日常の細事に埋もれている自分が、知らない場所にいつの間にか運ばれていることに気がつく。それはその一つ一つの仕事があたりの空気を巻き込んだ惑星であるような感覚に導くからだ。
 美術館の入り口に聳え立つ高さ5〜6メートル、周囲10メートルはあるだろうと思える作品を目の当たりににすると、よりいっそうその感が増すのだ。宇宙をさまよっていたものがあるとき地球に激突した流星だ。こんなスケールの展示をする美術館が日本の他のどこかにあることを私は知らない。ニューヨークにはあの大きな立体や、平面で知られる南米の作家ボテロの作品が通常に見られる場所があった。マールボロギャラリーだ。他にも比較的小さなギャラリーでそのボテロが数点だけ、どーんと展示されていたのに偶然出合ってびっくりしたことがあった。国情の違いだから仕方が無いが、川村記念美術館には行ってみるといい、澱んだ何かを払拭することが出来る。 09'2・19

         

  

9 学問ってすごい

 講談社新書福岡伸一著「生物と無生物のあいだ」という本を読んだ。学者による生物学の内容だから読みきるのに半年かかってしまった。何故あきらめずに最後まで読み切れたかといえば、これが平易で巧みな文章で、また詩的な寓話も書かれていて楽しみながら読ませてしまう力があるからなのだ。学者間の人間的な確執も書かれている。
 遺伝子(DNA)やウィルスの話しだから専門用語やカタカナ名詞が数多く出てくる。例えば「ヌクレオチド」などといわれても、素人だから名前を覚えてもしょうがない。出てきた時点でなるほどそういう役目をするものがあるのだ、ということが分かればそれでいい。そのような読み方をしていくと、いかに生き物の成り立ちが、翻って私たち人間の物理的営みが少々だが分からせてくれるのである。もう一度読み返すことでもう少し理解の巾が広がるのではないかと思っている。読むほどに、今現在自分の命の最小単位で起こっていることが意識され、生き物の一つである人間の物理的に、いかに巨大であるかも見えてきたのであ
る。私の場合はあくまでイメージで、でもそのイメージを喚起させてくれる、生物かどうか本当は分からない小さな小さなウィルスという存在があり、それが想像外の営みを繰り返していて、このからだに今起きているのだということが、感動した要因なのだ。ノンフィクション分野でこの本は、久しぶりに気を入れて読んだもので。30年ほど前になるだろうか、「学問の地図」という本を知人に教えられて読んで以来の感動だった。「学問の地図」は何人かの学者によって「人間学」を起こそうという試みによる対談形式の内容で、知ることや考えることの喜びを与えてくれる一冊だ。その思想や哲学というものでもない、生き物の最小単位の決定的な営みを教えてくれる本書は多くの人に読んだらいいのにと思った。
 始めに買った一冊を出先で失くし、あらためて買ったのだが、ついでに友人二人のためにまた二冊買ってしまった。また誰かにあげようか。そんなに高くないから。   09' 2・5
      

8 佐倉の美術館

 ちょっとした画廊や企業の持つ中規模の美樹館なら美術の片鱗ぐらい何時でも見られるのに、ひとたび公立の美術館で大規模に宣伝されると、渡り鳥のように群がって押し寄せる。まあ行かない人よりもいいか、と思ってあきらめ、慰める。アートというのは全貌展などというものより一人の作家の何点かを静かな状況下でゆっくり干渉する方がいいものなのに、お祭のように参加しなければ見ないというのはおかしい。
 東京近辺に住む人にとっては、いささか遠く感じる場所だが、千葉の佐倉に川村記念美術館というのがある。個人のコレクションがベースになった企業の所有で運営される美術館である。周囲の畑と林、小高い山に囲まれたのどかな環境の中にあるここが素晴らしい。建物の規模も疲れない程度の、といっても立派でしゃれたものだ。何より大きな池を中心に広がる庭園が、美術館本体の建物の何倍もあり、ゆったりとした気持ちに浸れ、そこでいいアートを見られるという本当の贅沢を味わえるのだ。
 コレクションはマグリットあり、藤田あり、それこそピカソもあるのだが、私の本命は、マーク・ロスコとフランク・ステラである。この二人のアメリカ人の作品を見たいために家から2時間余りの時間をかけて何度か足を運んでいる。ロスコの絵は5m×3mなどというのが普通で、その大きさの中にエンジの下地に黒で四角い枠を描いているという単純なものだが、その前に立つと、左右前後にある同じような絵の中で「色の拡がりの絵画」といわれているようだが、不可解だがスリリングな宇宙に取り込まれ、些細な日常などどこかに吹っ飛んでしまう感慨に浸れるのだ。するとその黒の四角それだけで人工物の、言って見れば都市の不安を表現しているように見えてくる。カタログから無断借用で違反になるかも知れないが、しかも正確な色が出せないが、とりあえずこういうものだという参考のために、下に掲載させていただいた。
 
次回はステラを紹介したいと思います   08' 10・25
                  
                  


7 がんばれ!?

 北京のオリンピックが終わった。会期中は「頑張る!」や「頑張って!」という言葉があふれていた。競技をする本人はそこに行くつくまでに大変な努力をし十分過ぎるほど頑張ってきたに違いない。それがまた本番で「頑張れ!」の声援の中にいる。「頑張る」には違いないが、声援の大きさが本人たちの過大な負担になり、金縛りに似た呪縛の中に陥っているように見えるのは私だけだろうか。自分が所属する協会の発展のためとか、それはまだいいが、国のためとかいった言葉が本人以外の外野から強く聞こえるようだ。「日本のために頑張れ!」と聞こえる声援が負担になっているのが競技者たちの多くの表情に現れている、そこで大事なときに自分の記録にも及ばない、実力も出ないという結果に多くが終わっている。
 元来こうした競技は本人自身のためにやるもので誰かのためにやるのではない。「頑張る」も、「努力」も充分やってきた練習の中にあるので、本番の競技では楽しくやれるような環境においてほしい。また結果も違ってくるかもしれない。周囲はあまりプレッシャーをかけない方法で応援したらどうだろう。本人も周囲も「国を背負って」などというのは本当に変だ。
 走り高跳びの選手が自分の頭の上30〜40cmの高さを道具なしで飛ぶ。私も壁について立ってみた。そこから40cmの高さに印をつけて、2〜3m離れてみたら、とんでもない高さなのだと知った。自分が飛び越えることを考えたら当然だが絶望的である。マラソンは42.195kを平均100mを20秒程で走りぬく。幅跳びは一気に8m余りを飛ぶ。それがどんな距離だか、外で測ってみるといい。野球にしたって気楽にビールを飲みながら文句を言って見ているが、投手は18m40cm余の距離を150kのスピードボールを投げて思ったコースを通す。それを細いバットに当てる人がいて遠くへ飛ばす。一度バッティングセンターで90kの球に恐怖を感じたことがある普通の私にとっては、陸上、水上その他のあらゆる競技者は神にしか見ない。その神にいたる経過がすごいことであって、たまたま一回こっきりの競技に結果を出せなかったからといって恐縮することはまったく無い。まったく非難をするにあたらない。自分の集大成である本番をどれだけの競技者が楽しんだのだろうか。競技者の中にも「日本のために」ということを言った人がいた。思い上がりである。こんなあたりまえのことを考えているのは、当事者も世間も変な方向に向いているように思えるからだ。   08'6

6 個展という刺激
 
 新宿 紀伊國屋画廊の個展が終わった。前回が1年繰り上がっていたので今回が4年ぶりということになった。間が1年長くなるということは少し余裕をもつことになった。結果としてよかったと思う。今回は腰の線をしっかり太くして裸体としての存在感をこれまでより強固にしたかったのだ。そのために余裕のというのは助かった。というより間があったから思うような試みが出来たということになる。腰の線がしっかりしたら、それまでの肩の巾が合わなくなり、顔の輪郭も表情も違って見えてきた。そこで肩幅を少し狭く、胸も小さくしたのである。そのことによってより腰の線が強調され当初思っていたフォルムが完成した。今後このフォルムに専念して新作に挑みたいと思っている。
 どんなに永くやっていようと、どんなに年を重ねようと、自分の作品に疑問を感じた時点ですぐに改善できる気力を大事にしていたいと思う。
 会場に展示された30点余の自作を毎日のように見ていると欠点も見えるが長所も気付き、また次の作品の構想などが沸いてくるのである。家にいて作っていた時には気付かなかった部分が客観的になることによって違う部分が見えてくるということな
のだ。知り合いや、まったく初めての人やらのさまざまな感想、意見などが直接作品を前に話すことが出来、相手が気を使って話してくるからまじめな会話になることが多い。中には的外れの腹のたつことも皆無ではないが、それもそれで刺激としては悪くない。毎度のことである。
 今回の製作中の後半、同人雑誌の原稿締め切りが重なって、それがライブのような製作中の苦闘の小説になった。小説だから誇張もあり、現実でないところもあって変わったものになったと思う。  08’2・2

5 なんで足が蔓なの?
 
 どうして色がないのかという質問が多いけれど、同じようにどうして手が無い、何で足が蔓になっているのかというのもよく聞かれるのである。手、足が無い.どころか顔が無いこともあるのが私の作品である。でも何故か?などということを聞いてほしくないのも正直なところなのだ。本当のところ私としては答えるの大変だから。見た人が自分で考えてほしいと思っているのだ。逆にどうして疑問になるんですかとこっちから聞いてみたい気になる。 抽象画を見て、どうして線の何本しか描いてないのですか?と絵画きさんが聞かれても答えようが無いだろう。線の組み合わせに具体的な意味があるわけではないからだ。抽象画とはそういうものだからいいけど、人形で手が無いのはおかしいという理屈になる。人形は従来コテコテの具象だという先入観がある。だからきちっと五体揃ってないと不安になるらしい。私の作品が裸であるというのも、人形にはあまり見られないという意識が働いているから、不思議に思ったり恥ずかしいと思う人も結構多いのだ。
 実はそこに私の狙いの一つがある。手足があるのが当たり前、服を着ているのが普通と思っている人にある種の不安を与えることで、それを媒体にして人である自分を改めて考えてほしいのである。外観では五体揃って見えても、心の中はどうだろうか、どこか欠けたところがないだろうか。
 私の作品がどこかが欠けた表現をしているのは人間である私自身が、あっちもこっちも欠けた精神を持っているからで、それを人のかたちで表現するときに、たとえば足がつるになったりするわけで、乳房が片方しかないからこういう意味があるというものではないのだ。 07'12 

4 私の白
 
 私の作品についての質問の中で多いのは、なぜ色がないのか、なぜ白なのかということだ。これが人形なのですか?というのも多い。私の白は絵の具による彩色だけれども、オフホワイトという自然な感じのする白である。いわゆる晒された人工的な白ではない。昔肌に使っていたローシルクという特殊な生地がちょうどその色合いなのである。人形にローシルクを使っていた川崎プッペという人がいて、それに引かれて私も使い始めたのだ。川崎プッペという人の作品も裸あるいは他の薄い布を纏わせるといった彫刻的な作風で、人形としては当時大きく大胆な作品で知られた方である。私の師匠の水上雄次と同時代に活躍した作家である。
 人形で裸の表現をしようとすると、普通の肌色では甘くなり、また生々しくなりやすい。 私の場合はどの時代の、どんな風俗でとか、物語に出てくるこんな人物を、とかいったものを創るつもりはなく、その時々に感覚する生きている人間の心のあり方を人の形で表そうとしているので、色の説明的な要素も邪魔なのである。といいながら、もう一つの名前で作っている布の人形は風俗的なものであり色もたっぷりと使っている。だからというか、反面教師的に色を使わないフォルムで勝負する鋭いものを創りたくなったのである。人形を作り始めて約10年後、30前後のことである。
 すると、時代も人種も日常も消えた作風が浮かんだ。そこからこれらの作品が生まれ始めたのである。白はまた、始まりの色であり、それぞれの生理の中でいうにも創造の余地が生まれるというものだ。      07’10,22
  

  暑いぞ!

 厳しい猛暑が続いている。その暑さを一層かきたててクマゼミの、シェッ、シェッ、シェッ、という忙しい声が、重い空気をさらに重くする。この何年かアブラゼミが減って、クマゼミが目立つ。夏の盛りの京都祇園祭に行ったおり、寺の境内をクマゼミが占領していてびっくりした思い出がある。大量に箱根越えを果たしたのが地球温暖化の証なのか、それとも他の原因があるのか分からないが、京都の夏の暑さがこの地にもセミとともにやってきたと思うしかない。こんな時期に布に触れているのは少々つらいのだが、やらなければならないのはそれが仕事だからで、仕方がない。サンドペーパーで磨くことをやっていると、クーラーのない仕事場では飛んだ粉がみな首の辺りの汗にくっついて不快この上ない。しかも舞った微粉状のものを吸い込むことにもなる。だから扇風機を強く回して粉が窓の外に飛んで行くようにセットして磨いている。これが室内の掃除の手間も省けてなかなか結構なのだ。クーラーの冷えに弱い身とすれば、これが涼しくもあり、磨きの仕事をこの時期にできるだけまとめてするように計画している。他の季節ではこれができない。わが身の涼しさとともに、庭に勢いよく飛び出していく粉の様子が快感になる。こんな些細なことでも楽しみにしながら、暑い時期を乗り越えようと思うばかりである。
 10年ほど前の同じような真夏の暑い日、汗をたらたら流しながら作業をする中で、ふと(されこうべ)
のイメージが沸いたことがあった。すぐにやっていた作業をやめて骸骨作りにかかったが、少しずつやっているうちに70個近くたまってきた。五百羅漢でも目指そうか。作品のイメージはいつどこで現れるか分からない。  
07'8

 新しい美術館
 
 4月の中旬、六本木の新しくできた美術館に行った。麻布十番に近いギャラリーから、少々歩くことになった。交差点からやや行ったあたりの右は、ついこの間まで防衛庁の味気ない塀が続いていていた所だったが、それが明るく開放され、大きなビルが立ち並んだ一角となっていた。ミッドタウンといわれるようになったそこは、オープンが近いとか謳っていて、忙しげな雰囲気が行きかう人たちに充満していた。そんな高揚感はすぐそばの六本木ヒルズについこの間まであったのだが、やや落ち着いたのかな、と思うまもなく、より新しい方へ人心を運んでしまうほどテンポが早いし移ろいやすい。
 新しい美術館はその大通りから住宅街に抜けたところにある。大きいし、天井も高い、そして明るい。美術館というよりなにやら湾岸辺りにあるいくつかの見本市会場を思わせた。ここに団体展のいくつかが上野から越してくるという。たくさんある団体展は確かに絵の鑑賞という前に、大勢の作家が集まって開く見本市だから仕方がないのかもしれない。それが主な目的ならそうなるだるだろうというだけのものだ。また2,3段掛けになるのだろう。 昔パリで華やかに集っていたさまざまの芸術家たちの作品が展示されていた。しかしゆっくり見ようにも広いところをわざわざ区切るから、天井が高いから、谷底で見ているような漢字で息苦しいのである。暗くて小さな写真など見る気にさせてくれない。ジャコメティーの胸像などちょっと後ずさりしたらすぐにぶつかってしまう。人の中に埋もれて落ち着かない展示だった。
 もう一つ、ギャラリーのオーナーも言っていたが、チケット売り場が本館の外にある。雨の日、傘を差して並んで、閉じて買い、そしてまた開いて入り口に向かわなくてはならない。これは上野のいくつかある会場と同じ。でも新しいところはロビーがやたらと広いのだから何とでもできるはずである。      07’5


1 人形の抽象性

 人形には独特の世界観がある。これは他のアートにはあまりないもので,それを人は情念とか、何とかいってみたりするけれど、それはひとえに具体的な人の形をしているからだといえるかも知れない。感情が入りやすいのだ. 作る立場から言えば人の形をとることで、生き物としての思いがどの分野のものより表しやすい。人形好きが作るものは、例外なく具象の要素を色濃く持っている。それはだから、やっぱり自分しか表現できないという証かもしれない。視野が狭くなりがちだ。子供を作ろうが、男が少女を作ろうが、女が男を作ろうが、年寄りの光景を作ろうが、そこには本人そのものが具体的な形で現れている。だから人形作りは面白いのだが、逆に見せられる側から言うと、いささかうっとうしいと感じることもあるだろう。作り手の思いが強くて時に押しつけがましいこともある。イメージの氾濫に陥りやすいのが人形の特徴なのだから。
 私の白い世界では常々、抽象という概念を忘れないようにと思っているが。        07’3