初期作品から

2、000年までの作品群の中から
代表的なものを選んで展示します


現在1983年までを展示

1971年 (昭和46年) 頃
   



ほこら



すーと飛んで
 

混迷

 上の作品3点は私が「人のかたち」といって作り続けているものの一番最初の作品です。今見れば恥ずかしいとこだらけの欠陥が目立つものです。ですが、思考性は今に間違いなくつながっているし、作品としては未熟ながら、そのとき作りたいと思ったものが素直に出ていることが現在になっても確認できるので、今写真しか残っていませんが恥を超えて展示することにしました。   浜 いさを
   
1972年 (昭和47年)頃   
   


 





  71’年の作品はおよそ三年間の病院生活の拘束から離れて、グループ・グラップ展に復帰して出品したもの。悶々とした入院生活の中で考え抜いた自分の新たな出発点となる作品だった。そのすぐあとの翌年、東急日本橋の人形展に出品したのが下のうちの2点。特に「園」(高さ105ミリ)は何じゃこれ!と多くの人をびっくりさせ、人形じゃない、東京タワーみたいとかいろいろ言われた作品となった。人形の概念を壊したいと思った結果が思った方向に向いていったものでもあるし、作品のよしあしはともかく、自身これによって勇気の付いた記念碑だと思っている。。この年には今はない鎌倉西武での自身初めての個展も開くことが出来た。思えば、連合赤軍の事件が続き、2月、ついには浅間山荘で学生たちが壮絶な終焉を向かえた。それがテレビで何日かにわたって終日生中継され、衝撃的な事件に日本中が震撼となった年でもあった。鎌倉の街内でよく見かけていた川端康成が近くのマンションで自殺をしたのも、この年だ。
   
   1973年 (昭和48年)頃
   




あやつられ

 

風蝕
   前年あたりからいろんな形の比較的小さなグループ展が増えた。そこに私も積極的に参加するのだが、同時に人形という活字が雑誌を中心に目立つようになった。人形の種類がいかに多いことかとあらためて驚いていた。社会の中で新しい人形に対する認識が広がるのはいいことだった。作家側から言えば、人形という定義に巾が出来て大変いいことだったと思う。ただ多くがおどろ、おどろと怖い、というある種人形の持つ独特の特徴に乗ってただ気持ち悪いだけと、言いたくなるようなものが新しい作家に増えたのは、また人形の偏見的なことに繋がっていきそうで気がかりだった。私のものは身体を変形させているし、お腹に目などがあるから、ごくたまにおどろ、おどろしているという人がいる。それは違う。見えるものだけ見ていては本質を見過ごすことになる。簡単に言えばお化け屋敷ではないということだ。
 
1974年(昭和39年)頃 
   


忘れられた樹


夢の香
   この年の秋に朝日カルチャーセンターが新宿に開講した。私の記憶では受講希望者が殺到して、全講座で2万人ほどの申し込みがあったという。朝日でもそれは予想外の人気であったらしく教室も事務所も浮き立つような雰囲気があった。私の教室も50人台後半の人数で始まり、うれしいのだが多いなりの大変さもあった。大きな教室で2時間立ちっぱなしで人の間を回る。大きな黒板で、大きな声で作り方の説明をする。もうそれは人形教室の雰囲気ではない。私自身一人ひとりの細かいとこは説明しきれないから、助手が三人着いたのだが、皆それぞれに大変だったようだ。習う方の身になれば、いちいち聞けない、手にとって教えてもらえない。いっせいに同じ作業をする。同時に進まなければならないからある種パニックになりそうなときもあった。「ゆっくりやってください!」という人。すぐやってしまって「それからどうやるんですか!」そんな言葉が小さな苛立ちになることが多かった。技量や性格で当然ばらつきが出るのである。私としてもどのあたりの人に合わせて進行するのがいいのか、冗談でごまかしながら見計らっていた。日本が東京オリンピックも成功させて10年余、経済的余裕が人心を文化的な潤いに向かわせた高度成長期只中の出来事だったのだろう。教室には若い男も何人かいて、年齢差も巾があり面白かったが、世間からはやや揶揄されるように「朝カル婦人」などと呼ばれたこともあったのだ。作品的には悪くない時期である。
 
    
1975年(昭和50年) 頃

 
   























レリーフ 虫 1・2
  この頃はレリーフを良く作っていた。立体作品を作っている時にフト、絵ならもっと自由に表現出来るだろうと思うことも良くあるのだ。思うことは嘗てからあったあったことで、そしたら半立体の作品ならまた違う表現が展開できそうだと考えた。立体の作品と同じ素材で作れるから、桐塑があまったときとか、合間にイメージが浮かんだときにわざと多めに作っておき、部分をバラバラにいくつか作ってしまうのだ。作っておけば他のものをやっているうちにいつの間にか(そんな感じなのだ)乾いてくれる。合板の板を用意したら、とりあえずそれらをレイアウトしてみる。良かったら細かいイメージを加えて一気に仕上げることが出来る。それが楽しいのだ。だから始めたら一気に何点も出来てしまった。
   
                      
  1976
年 (昭和52年) 頃

  
   


夢の香り

 

スタンド

  この年は社会的にはロッキード事件があり世間を騒がせていた。そして現職の総理大臣が逮捕されるといった衝撃が走った。私個人としても前年に8年続いていたグループ展が解散して、また新しい気分で作品に取り組む気分になっていた頃ではなかったかと思う。下の「館」という作品は高さが120センチある作品で、私としては2番目に大きなものである。一番大きなものは横になって天井から吊るすようなものだから。いわゆる立っている作品としてはボリューム的にも一番大きいものになる。そういえば作品や本人のテレビ出演が続いた年だった。考えてみるとこの前後の年あたりが生涯一番作品数が多いかもしれないと、今この文章を書きながら思っている。確かではないが。
   
  1977年〜78年頃(昭和53年)
   


溶解


無題
   
1979年頃 (昭和54年)
  




無題
 

飛べない日





余韻
 
   
1980年頃(昭和55年)
   


つかめないもの


流れる
 

受胎

   
1981年頃(昭和56年)
     

 

   

            イカロスの風

   
1982年頃(昭和57年)
   












 


艶淡し
 

球体に溶けて

   
 1983年頃(昭和58年)
   

困った男

 
 

胎芽のきざし

 

中からの声

 
 1985年頃(昭和60年) 
     
 

顔のない目



 

網の掛かる時
 

呼ぶ
 
あらためて見るとこの辺りの何年間が一番シュールの匂いが強いかもしれない。
   どんな心境だったかなどということは覚えていないが、今でもときどきそんな強い気持ちに駆られることがある。本質的に自分の中に根強くあるものだと思っている。