あれもこれも、とむ草也
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私が20代の半ば頃、人に紹介される状況があって言われたことに、「この人は子供を作らせたら日本一なんですよ」というのがあった。うれしいことだったが、面映ゆい思いをし、軽い苦みも感じたのだ。その紹介をした人は当時西武デパートの講座部長で特攻隊上がりの精悍な人だったが、その後50代全般の頃に、何があったのか、自死された。
 それはともかく、私の作りだす子供の人形が確かに自分でもいい出来だとは思っている反面、その雰囲気に自分ながら少々の不満があるのだ。いかにも子供らしく無邪気なおおらかなものになる。今でもそれは言えて、良くできたとは思うのだが、半面、影みたいなものを出したいときになかなか出にくい。というより出せない。
 カ
リキュラムとしてのポエムの人形だから、子供ばかりでもしようがない。そこで大人の題材の物を入れたりする。受けるのは子供の人形だからついついそれが多くなる傾向の時代があった。逆に言ったら苦しい時の子供頼みという感覚もあるにはある。
 子供の中にも色々な感情があるから、多少ひねたものや、少々の毒、影のあるものができたらと思ってやるのだが、出来上がったものが大体がいつものいかにも万人向きの、いわゆる子供らしいというものになってしまう。それで人形生涯を通していけば、それなりの作家としての評価も受けて安泰だったろうが、そうはいかなかった奴が、今この文章を書いている。

2013.4 
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人形に衣装を着せる作業は女性の人形作りにとってはたまらなく楽しいことのように思える。何らかの衣装を選び、どんなものにするかは、その人形に明快な個性を持たせることになる。普段着なのか、よそ行きなのか、少女ならば自分でも着たことのないフリルのついたフランス人形的なものなのか。好きなようににコーディネートできるわけで、人形を擬人化して、その決定権が自分にあるということが、どこか母性本能につながるのではないかと思うのだ。人形作りの一つの大きな楽しみなのだ。
 ところでその衣装を作るにあたって、人間の衣装同様、型紙を取らなければならない。その際に寸法を正確に取ろうとして、裸の人形の首回りや、肩幅などを測り始める人が多い。洋裁のの知識がなまじあるから疑いもなくそこから始める。しかしこれは大きな間違いなのだ。
 衣装を纏っていない人形の体が解剖学的に生きた人間のリアルな身体になっていればそれでもいいかもしれない。しかし木毛を詰めたり綿を詰めたりしているものが、そんなものであるはずがない。素人の作った人形の多くが、まじめな人ほどこのような間違いを起こしやすい。シャツがシャツになっていない、ハイネックのセーターが窮屈に体に貼りついていて見えるだけ、といったものだ。シャツはシャツの約束事、セーターはゆったりとした外見上セーターのイメージをしっかりとらえて。そこから型紙を起こさないといけない。
 それをやれば人形の体の欠点を外側から補うことになることも、気付いてほしい。
10.8、18
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私が内弟子の頃は人形の肌にはジョーゼットを使うのが主流だった。師匠がフランス人形というきれいで美しい作風のものを得意として作っていたので、それにはジョーゼットが最適だったのである。素朴な作風や売り物の人形などにはスフモスというのを使っていた。スフはステーブルファイバーの略で化繊である。モスはモスリンの略でたぶん本来は毛織物ではなかったかと思う。スフとモスで表現された布はほんとに安い生地で人形用に売っていたのだ。モスは本来の意味はコケのことで、表面が少し毛羽立っていたことからモスといったのだろう。ちなみにジョーゼットと言っても絹ではなく、これも安い化繊で人形用のものだった。本絹はとても高くて当時はなかなか使えなかったのでる。さくら人形などと言っていた藤娘や汐汲みなど、舞踊に題をとった日本人形があったが、それらは全てジョーゼットであって、化繊か本絹だったかはよく分からない。ただ人形用の方が薄くて、腰が弱かったので、かえって扱いやすかったように思う。
 今ポエムの人形で主に使っている木綿のメリヤスは、当時反物としては手に入らなかったので肌着のきめの細かいものを探して使っていた。その後私が独立してから東京は両国あたりの家内工業的な小さなメリヤス工場を探し回ってようやく見つけたものだ。
'10 5
 
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井出忠彦という人に付いてやった仕事に三菱製紙のテレビコマーシャルがあった。パントマイムのヨネヤマ、ママコさんが大きな用紙の束の前に立ち、そこに男の子の人形がスーと飛んで来て紙の束の上にとまる。そして角近くで足をぶらりとさせながら腰掛けるのだ。米山さんが人形に話しかけて人形がそれに答える。パントマイム特有のやわらかい動きと人形のしぐさがスムースに流れなければ失敗となる。朝早くから夕方まで、当時売れっ子のヨネヤマさんを拘束できるのは一日だけで、だからどうしてもその半日の時間内で撮り終えなければとスタッフが緊張していたのが思い起こされる。スタッフと言ってもカメラの人、ライティングの人、人形を動かす井出さん、そして助手の私だけだけれども、失敗を許されない中慎重に静かに一カットづつ撮影をしていった。ちょっとでも人形の動きが不自然だったり、誤って人形を落としでもしたら最初からやり直しなのだから緊張など当たり前のことなのだ。地震でも来たら全部アウトである。私は助手で、言いつけにしたがって後ろや前に行き来するからそろり、そろりと急いで動いていたのだ。
 今は高層ビルが林立して面影などまったくないがJR品川駅の港南口、当時は駅前から海近くまで広い敷地の食用肉の屠殺処理場があり、高い塀に沿った道を歩くと独特のにおいが一体に漂っていて、何日か通うと体に染み付いてしまうのではないかと心配にもなる仕事でもあったのだ。'09 11.5
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アニメの人形の素材は、今は樹脂系のものや、さまざまな粘土類もあるから自由に出来ると思うが、昔は木と布が主流だった。私が助手としてやっていたのはやはりメリヤスである。メリヤスは伸びがよく無理なく曲げられるからポーズを作るのに便利だし、何よりも手近にある素材だったから使いやすかった。手は細いヒューズに綿を巻いて指にする。ちなみに劇画とか漫画などの平面表現でも、リアルな画風をのぞいて、多くのキャラクターは手の指は4本である。その方が見た目にきれいなのだ。鉄腕アトムも4本だ。そのほうが動きがスムースに見える。
 指の先から二の腕までヒューズに綿を巻いてメリヤスで縫った長い手袋のようなものをかぶせる。顔も針金と綿で表情をつける。工夫があったのはその上に肌色の生ゴムを塗ることだった。そうすると布目が消えて艶が出る。そうして出来たものも何度も曲げたりライトの光線に当てるものだから、薄いゴムの膜は早めにボロボロに痛んでしまう。だから予め同じものを二つ作っておくことで解決するのだ。
 思い出したのは、アニメではないが東宝のキングコングの映画で、女優の浜美枝さんに似た人形を作ったことだ。コングの掌に乗る20センチ足らずのもので、リアルで、なによりも似てなくてはいけないので、たぶん新聞紙で紙粘土を作って形を作り、やはり生ゴムでコーティングをした。後に大きなポスターに小さくだったが写っていて、あまり似てなく、作りの稚拙さにに我ながらあきれたり恥ずかしかったり。だから写真も残していない。 09'10
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 人形アニメを作っていたといっても私は助手で、先生は井出忠彦と言う人だった。井出さんは当時40前後だったろうか、真っ赤なシャツを素肌に着、スバル360という当時流行っていた小さな車を、屋根を取りはらってスポーツカーのようにし、それも真っ赤に塗って颯爽と飛び回っていた。二人乗りの小さな車だから六本木の坂などで息切れしてしまう、私も助手席に乗せてもらいそれで都内を走り回る。珍しいため人が振り返り、交差点で止まると寄ってくる。目立つことと、そのいたずら的なことが楽しくてたまらないといった人だった。
 人形も創る。布で創るのだが型紙など目もくれず、いきなり縫い始め綿を適当に詰め、目は適当に丸く断ち切りにし、端の糸を抜き、モサモサ出たそれをまつげにする。目玉も柄物の布を小さく切ったものを何枚かのりで貼り合わせるだけ。それが出来上がると、なんとも生き生きとした独特の雰囲気を持った粋なものが出来るのである。
 テレビのCMを作りながら本来は俳優で、殿山泰司、清川虹子などという人たちとよく仕事をしていた。個性的な脇役としてシャープな姿をいくつかの映画の中に見せていた。代表作は「おんぼろ人生」「気違い部落」だろうか。多才な、という表現では言い表せないほど多様な才能を持った素晴らしいセンスの人だった。今もアメリカの西海岸に住み、相変わらず年齢に無関係な自由な生活を送っているに違いない。懐かしい。
 
続く。 09’8         
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先日の朝、新聞のBS放送の番組欄を見ていたら、人形アニメの文字が見えた。よく見てみるとイジー・トルンカとある。お!と思ってすぐにDVD録画予約を済ませた。名簿の中に知り合いの名前が見つけやすいようにその時も、人形という文字とトルンカの字に引っ掛かったのだと思う。イジートルンカはチェコの人形アニメ作家であり、詩情豊かな絵本作家でもある。私が人形を始めた昭和30年代初めの頃にはすでに巨匠的な存在であり、人形界には影響を受けた人も多かった。「真夏の夜の夢」や「二等兵シュベイク」のシリーズなど数多くの名作を残している。
 私も若い頃人形アニメでコマーシャルを作ったことがあるのでその大変さは身にしみている。映画のフィルムは1秒間に24コマ動く。例えば降ろされた腕が一秒かかって上に行くとすれば、その間を24回に分けて人形の腕を動かし、一コマずつシャッターを押していくのである。動くのが手だけでないなら、頭も足も同じく24コマ動かさなくてはならない。そして初めて全身が一秒間動いて見える映像が出来上がるのである。同時に背景もまた、例えば木々が風に揺らいでいれば、それもまた一秒に24コマで、トルンカが1時間以上の長編をたくさん残しているが。その根気と粘りは神業の技術なのである。1時間は何秒でしょうか、それにまた24をかけた数字が人形が動いて見える原点なのだ。

    
この話しは続く。09'6・19
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スーパーリアリズムと呼ばれるアートの分野がある。まるで生きているかのように精巧に描き、その技巧を誇示する絵なり彫刻なりである。人形にも江戸から明治にかけて「生き人形」を創る作家がいた。熊本の松本喜三郎始め何人かの作り手がいたようだ。人形だから等身大だけではないが、写真で見てもそれは見事な作品で、究極の表現といわれても異存はない。
 人形は基本的に世俗の風俗を移して作品にしていくもの、という伝統がある。だからリアルなものがよく出来ていてすごいという評価を得やすい。
 しかし本当にいいものは内面までも表現できている。表面的に技巧だけで、ただうまく作ったというものであれば逆に貧祖なひどいものになる。最近そんな人形作家が多くうんざりさせてくれる状況がある。中途半端なのだ。本当の生き人形というのは題材の人間の生き様も込められていなければ、それはただの形だけのものだ。本当に生きているように創るというのは生易しい心情では出来ないだろう。
 全体的に人形に欠けているもの抽象性というものがある。たまにはできるだけ無駄な技術や、余計な状況を省いたシンプルなものを作って、あらためて人形作りの意味を考えたらいいかもしれない。
 ということで、5月12日から東京は銀座のど真ん中で、そんな試みの教室展をやることになっている。今各人が製作中で、さて、いかなる展覧会になりますやら。ぜひごらんいただきたい。心意気は伝わるかもしれない。 09'2・19

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合わせて100人を超す生徒さんがいた時代もあった。そのために1年で10体の新作を生み出すという作業をしていた。だから習う方は半年に5点。それを毎週2時間、通算で1点を4.5週で作る。
 教室にはうまい人とそうでない人が混在している。習う立場から言ってもこれはちょっと早いペースなのだが、遅い人に合わせているとそれでいいのだということになって、どこまでも遅くなっていく。ペースが乱れる。そこで出来る人からは不満が立ち上がってくる。「この次は?」と何度も繰り返し言われてしまう。すると遅い人から反発が出てくるようになる。「早すぎる!」教室のまとまりがなくなってしまうのだ。だから早い人にとってはちょっと遅めに運び、そこで少し待つように言い、遅い人には急がせるくらいの方がまとまるのである。真ん中の人に合わせることではない。同じ早いでもきれいに出来ている人と、早いのが自慢という乱暴なタイプの人もいて、同じものをいっせいにやる教室ではそこが大変だ。後は説明をして家に帰ってからやるように進める。宿題ということである。そこで調整が出来るはずなのだが、分かっている人は家で先をやってきてしまう。そして次の週に「この先は?」で始まる。教えるのも難しい、むずかしい。
 そんなこんなでたまったのがこの作品群だ。最近は3年に1点作るかどうかのペースになっている。 12・15
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私の師匠の水上雄次は明治生まれの人である。したがって大人になり人形作りを始めたのが大正の終わり頃となるのだろうか。舞台衣装を作っていたから洋人形といっていた人形もきらびやかな物が多い。
 大正時代といえば、日本人の目はいっせいに西洋に向いていたようだ。大正ロマンと呼ばれた時代は西洋にあこがれる余り、どこか日本人であることを忘れたような文化が花開いた。そんな大正時代を否定する向きもあるようだが、良くも悪くも今の日本にその名残というか、すっかり西洋文化が定着した姿が見える。ホールではバレーやオペラ、フラメンコ、等々盛んに演じられている。小さなクラブではジャズがあり、シャンソンがあり、それらがみな日本人の手によるものだから、わが国は考えてみたら奇妙な国だ。世界のほかの国のどこを探してもこんな状況は無い。手芸の領域にして普通手がけているものには、あげたらきりがないほど輸入物が多い。
 日本人の旺盛な好奇心とエネルギーが成すものが、今の発展の源として見えてくる。
 私の世代も長い間人形作りは西洋の雑誌や絵本、映画などを頼りにして作られていた。今はさすがに日本のセンスも良くなったから、それほどに頼らなくても何とかなるようになったが、それでもヨーロッパの絵本には、色のセンスや人形の素材となる良いものが今でも多い。    08、9、2
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人形を作っている人で、プロ、アマにかかわらず作るものが無くなっ たという意味のことを良く聞くのである。私は仕事だからそんな甘いことを言っている立場は無い。教室家業も永いし、かなり多くの生徒さんたちに対応してきた。その人たちがそれぞれまったく違う作品を作っているから、そのアドバイスに答えるだけでも大変なのである。こういうものを作りたい、したがってどうしたらいいだろう、というようなことから始まり、手の大きさやスカートの丈まで、全てのことに答えなければならないという宿命である。知らないことは正直に知らないと言うが、それが続いたらプロとしらアウトだろう.
最初に何を作っていいか分からないというのは、普段見えるものをちゃんと見ていないからである。大半の人が好きな子供にしても、一人の子だけでも時間によって表情が違うし、それはその都度の状況が違うということなのだ。その瞬間をとらえれば無限の題材が身近にあるということになるる。 約束された表現にだけ捕らわれていると何も生まれない。

 
08’6.15
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18歳になったばかりで私は師匠について池袋の西武デパートにあった教室に行った。一週間前に人形の何一つも分からずにこの世界に入ったものが、いきなり先生などといわれて面食らったものだ。ただのカバン持ちも、先生の助手として見られて質問までされてしまう始末。分かりませんとも言いにくく適当に答えていたが、当たり障りの無いことでよかったが冷や汗をかく思いだった。
 そんな小僧が、師匠が亡くなった3年後に教室を継ぐ形になったのはそのときから8年ばかりたっていた。初めての自分の教室は40人ぐらい集まって盛況だった。そこから私の人形教室人生が本格的に始まった。その後教室は一つ増え、二つになり、また増えながら渋谷、新宿、池袋と忙しく通っていた。盛り場ブルースだ。
 
それらを突然病気でやめざるをえず、復帰したのが3年後。朝日カルチャーセンターというのが出来るが講座を持たないかといわれ、二つ返事で引き受けた。開講したら50人、次の更新で60人、次で63人の人が集まった。脅威の教室はマイクを持って始まったのである。人形好きの多さは信じられない現象を生んだ。およそ33年の時間を消化して今もまだ10数人で続いている。あまり表に出ないが人形好きは今でも思いのほか多いのである。 
08.2.3
3

布の人形といえば、布を肌に使ったものということだ。胡粉塗りで仕上げた顔に布の衣装を着せたものは普通にある。
 肌に使う布は基本的には何でもいい。ただ、貼る場合は糊が利くかそうでないかで決まる。あまり薄いものは向かない。糊が染みだす。
 紙粘土の類できちっと細かいところまで作り、そこに布を貼る場合、凹凸が激しくなければ少々伸びが悪い布ても、土台が硬いから貼ることが出来る。貼るときの糊は手芸用とか、木工用として売っているボンドが良い。このボンドがはじめて出てきた昭和30年代中頃(だったと思う)私たちの仲間の中から自然発生的に布貼りの作品が急激に増えた。リアルなつくりが多い今の人形界を見ると、だいたいものがこの技法で作られていることが分かる。ボンド様ゝなのである。
 一方で布の持つ味が一番出る、最近は糸引きといわれている昔で言えばぬいぐるみ手法のものが少ないのがさびしい。メリヤスやジョウゼット、ナイロンのストッキング、よく伸びる布で、糊を使わず、針で刺して糸を引くことを繰り返しながら、少しずつ表情を出していく時の感覚を覚えたら、人形作りの面白さがもっと分かるのにと、残念なときがある。布の味が一番出るのだから。  7.10.29

 
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私が「布でつくる人形」という本を上梓したのは昭和53年、西暦で1978年だった。この本は美術出版社という美術系では最大手の所から出されたもので、人形界では画期的な出来事といっていい。
 私が人形を始めた昭和32,3年の頃には、布で作られた人形は、伝統的な人形界から一段低く見られていた。いわゆる手芸の延長というわけである。確かに婦人雑誌を飾る簡単に誰でも作れるマスコット的なものも、仕事のために作ってはいたが、一方で大胆な新しい人形の息吹を感じさせる作品は、布を肌に使った作家から生まれ始めていた。
 私は当時話しにならないが、先輩方に新しいセンスの作家は何人もいたのである。従来の漫然と約束事にとらわれた作風のものとは明らかに違う、現代を感じさせる作家たちだった。その20年後、布でつくると謳う作り方の人形本が、美術系の中から出版されたというのは
、これは私として自慢していいのである。  07’9.24

 
 人形の世界に入ってから50年になろうとしている。昭和32、3年。当時も人形界はにぎやかさで、さまざまな作家が、それぞれの作風の中で生き生きと活躍していた。大きな公募展もあり華やかだったのである。
 大正時代に芽生えた創作的な人形作りは、無残な戦争を経て戦後まもなく、再び美しい夢を見たい人たちの中から復活し、同じ夢を共有したい人たちのサークルがあちこちにできて、あらゆる分野の人形作りが盛んだった。
 明治生まれの私の師匠水上雄次という人も、若いころにフランス人形という華やかな作風のものを編み出し人気を博していたのである。
 私としては世の中の何も分からない身で、思いもよらなかった世界の中でただうろたえていた。時の18歳は人形の対する意識などかけらもなかったのである。病弱の身で何もできず、とにかく世の中に出て行く手段としての人形だったのだ。
 07・9.1